ある日、私は、
一人の方の「娘」に
なっていました。
もちろん、私は娘さんではありません。
そうお伝えしても、
その方の中では、
私は間違いなく娘でした。
私は、どのように言葉を返せばよいのか
少し迷いました。
人は、家族の顔や名前が
分からなくなったとき、
大切に思う気持ちまで
一緒に失ってしまうのでしょうか。
その方との会話は、
忘れていくものと、
それでも残るものについて、
あらためて考える
きっかけになりました。
何度否定しても、私は娘だった
娘さんだと思われていることに
気づいたとき、
私はすぐに、
「私は娘さんではありませんよ」
とお伝えしました。
けれど、説明しても、
ご本人の中では私は娘のままです。
事実を伝えているのだから、
間違った対応ではないはずです。
それでも、正しいことを伝えるだけでは
うまくいかないことがあります。
何度も否定すれば、
かえってご本人を
戸惑わせてしまうようにも感じました。
そのうち私は、
強く否定することをやめました。
話を聞くこともあれば、
時には、そのまま聞き流すこともありました。
ところが、私が聞き流そうとすると、
もっと自分に
注目してほしかったのでしょうか。
その方の話は、
さらに具体的になっていったのです。
私の知らない「私の人生」
「お前が高校に行ったときは、
うれしかったよ」
その方は、懐かしそうに
話し始めました。
娘さんの出身校。
結婚したこと。
その後、離婚したこと。
そして今は、
一人でいること。
私が返事に困っている間にも、
娘さんの情報は
次々と増えていきます。
私は娘さんではありません。
当然、どれも
私が知るはずのなかったことです。
もちろん、聞いたことを
誰かに話すつもりはありません。
それでも、心の中では、
「そこまで私に話してしまって、
大丈夫でしょうか」
と、少し心配になりました。
そして、その話を聞いているうちに、
今度は自分のことが
気になり始めたのです。
ところで、私の親は大丈夫だろうか
私の親も、
私の知らないところで、
私の過去を誰かに
話すことがあるのだろうか。
私にも、
親は知っているけれど、
ほかの人には話してほしくないことが
一つや二つはあります。
親にとっては、
懐かしい思い出かもしれません。
子どものことを心配して、
話しているだけかもしれません。
けれど、話される側としては、
「その話は、できれば
胸の中にしまっておいてください」
と思うこともあります。
今度、親に確認しておこうか。
そう考えましたが、
尋ねたことで、私が忘れていた過去まで
次々と出てきそうな気もします。
それはそれで、
少し聞くのが怖い気がしました。
語られていたのは、過去だけではなかった
少し戸惑いながら
その方の話を聞いていましたが、
一つひとつの言葉を振り返ると、
あることに気づきました。
高校へ進んだ話には、
娘さんの成長を喜ぶ気持ちがありました。
一人でいる娘さんを案じる言葉には、
今も変わらない親心がありました。
話している内容だけを見れば、
娘さんの個人的な出来事を
次々と明かしているように思えます。
けれど、本当に聞いてほしかったのは、
出来事そのものでは
なかったのかもしれません。
娘さんが頑張ったことが
うれしかった。
つらい思いをしていないか、
今も心配している。
私に向かって語られていたのは、
娘さんの過去だけではなく、
大切に思い続けてきた親の気持ちでした。
家族の顔が分からなくなっても
認知症の症状によっては、
家族の顔や名前が
分からなくなることがあります。
今がいつなのか。
ここがどこなのか。
目の前にいる人が誰なのかさえ、
分からなくなることもあります。
その姿を見ているご家族は、
大切な思い出も、
自分への気持ちも、
すべて失われたように
感じるかもしれません。
今回の方は、
私を娘さんと取り違えていました。
それでも、その言葉には、
娘さんを誇らしく思い、
今も案じる気持ちが残っていました。
もちろん、認知症の現れ方は
一人ひとり違います。
家族への思いが、
誰にでも同じように
表れるわけではありません。
それでも、この方との関わりから、
家族を大切に思ってきた時間まで
すべて消えてしまうわけではない。
私は、そう感じました。
忘れてしまったことだけでは、
その人のすべては語れないのだと思います。
「誰と間違えたか」より「何を伝えたいか」
認知症の方が
事実とは違うことを話していると、
私たちは、つい訂正したくなります。
「私は娘さんではありません」
事実とは違うことを聞くと、
正しい内容を伝えたくなるのは
自然なことだと思います。
けれど、何度も訂正することが、
ご本人の安心につながるとは
限らないのだと思います。
今回の方にとって大切だったのは、
目の前にいる私が
本当に娘なのかどうかではなく、
娘さんを誇らしく思う気持ちや、
今も案じる気持ちを、
誰かに聞いてもらうことだったのかも
しれません。
「うれしかったのですね」
「今も心配なのですね」
そのように、言葉の奥にある気持ちを
受け止めることも、
一つの関わり方だと思います。
話を聞くことは、
事実とは違う言葉を
すべて肯定することではありません。
正しさをいったん横に置いて、
その人が何を感じ、
何を伝えようとしているのかを考える。
そうすることで、
ご本人の安心につながる言葉が
見つかるのではないでしょうか。
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まとめ|私は娘ではなかったけれど
私は、その方の娘ではありません。
それでも、その方の言葉から、
娘さんを大切に思ってきたことは
十分に伝わってきました。
顔や名前が分からなくなっても、
誰かを思う気持ちまで
消えてしまったとは限りません。
忘れてしまったことだけで、
その人を見ない。
それが、あの日の会話から
教えてもらったことです。



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